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竹田 歴史講座

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(祝)ベートーヴェン生誕250年、縁の地を訪ねて 


音楽の都オーストリア・ウィーン/ザルツブルク
〜モーツァルト・ベートーヴェンに縁の地を訪ねて〜
                    《文・写真》 成澤礼夫

はじめに 

 50年ほど前のことになる。私が小学校5年生の時、父にFM付き携帯ラジオを買ってもらった。たまたまある晩の事、NHKのFM放送のスイッチを入れたところ、「クリスマスオラトリオ」という曲が流れていた。バッハという人の作曲だという。これが私と「クラシック音楽」との初めての出会いであった。その崇高な音楽を聴いて、世の中にこんな素晴らしいものがあるのかととても驚き、感動したことを覚えている。
 以来、私にとって音楽といえばクラシック音楽であり、中でもベートーヴェン、ブラームス、シューマンの交響曲や、バッハの宗教曲などを愛して来た。中学、高校では吹奏楽部に入り、フルートを担当した。吹奏楽部の部室でもあった中学校の音楽室の一室に、昔の古い蓄音機とレコード盤(78回転)が残されていた。レコード盤は、昭和20年代のものだろう。78回転なので片面があっと言う間に終わってしまう。一人、その部屋に入って、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」やメンデルスゾーンの「春の歌」などを聴いた覚えがある。その頃、テレビで放映されていたNHK交響楽団のコンサートが楽しみとなった。
 高校3年生の時は、私の大好きなブラームス作曲「交響曲第1番」を卒論テーマにした。その第一楽章冒頭にティンパニーが52回のゆっくりとした、しかも力強く鳴り響く連打は、ベートーヴェンの「運命」冒頭の「ダダダー」を何かしら連想させるものがあって面白かったからだ。
 高校で卒論とはめずらしいが、私が通う高校は工業高校だったこともあり、学校側は生徒が就職先が決まると勉強しなくなると思っての教育的配慮なのか、しかしながら、大学入学試験を前にした生徒にとってはそのために余計な時間を割かれるわけで、少々ありがた迷惑な話だったことも事実である。
 ともあれ、卒論テーマは自由で、私はブラームスの「交響曲第1番」にしたわけである。その時に数十枚のレポートをまとめた。各楽章やパッセージがどのような展開になっているか構造を分析したり、それはどのようなことを表現しようとしているのかなど、楽譜のミニスコアの冒頭に書かれてある解説をいくつか眺めながら、自分でそのパッセージを追って見た。この経験は私に音楽を聴きながら楽譜を眺める楽しみをもたらした。
 社会人になってからは、1992年から94年頃だが、米沢市民オーケストラ(現米沢フィルハーモニー)に2年間ほど在籍したが、米沢から東京に転勤となり、オーケストラ活動とはそれっきりになってしまった。しかし、いつかクラシック音楽の本拠地オーストリア・ウィーンに行ってみたいと考えるようになった。

sw-14 平成4年(1992)、私が当時勤務していた会社(日立米沢電子株式会社)の社長(当時)が、米沢からドイツのミュンヘン近くの町、ランツフートにある会社に社長として転勤した。また私と同じ職場に勤務していた同僚が、社長とほぼ同時期にランツフートの会社に転勤となったのであった。
(写真左=ドイツ・ミュンヘンにあるミュンヘン大聖堂)

 海外に誰か知り合いがいるというのは何かと心強いもので、平成5年(1993)4月下旬〜5月上旬、私と家族の3人はゴールデンウイークの長期連休を利用して、ランツフートを回り、スイスのチューリッヒを経由して、モーツァルト誕生の町、オーストリア・ザルツブルク、そして音楽の都ウィーンまで足を伸ばすことにしたのである。
 当時と今では事情が変わった部分があるかもしれないが、令和2年(2020)はベートーヴェン生誕250年に当たることから、今回改めて当時の写真と記憶を辿りながら旅行記をまとめてみた次第である。

こじんまりとした町、ザルツブルク

sw-1 成田空港からドイツ・フランクフルト空港まで飛び、そこからは列車の旅である。前述のランツフートに元社長や同僚を訪ね、ミュンヘンから国際列車に乗って、スイス・チューリッヒに滞在、ルツェルンなどに足を伸ばした。
 途中、ドイツとスイスの国境付近の平原では、黄色の花を咲かせたタンポポが一面を覆っていた。
(写真右=ホーエンザルツブルク城から眺めたザルツブルク市街)

 チューリッヒから国際列車は、私たちを乗せて冬季オリンピックが開かれたオーストリア西部インスブルックを経て、いよいよザルツブルクに到着である。ザルツブルクは、ドイツ南部の都市ミュンヘンとは直線で100キロ余りと意外に近い場所にある。ザルツブルク駅に到着して、まずホテルを探すことから始まったが、駅からすぐの所に手頃な値段のホテルがあることが分かり、直接行って宿泊できるか交渉することにした。幸いに家族3人で(シャワー、トイレ、朝食付)で約六千円の部屋を取ることができた。
sw-2 4月下旬のこの季節は夏の行楽シーズンと違い、予約は不要だと旅行ガイドブックに書かれていたがその通りだった。
 ホテルから歩いて旧市街に向かった。夢のようなお花の庭園、ミラベル庭園はザルツブルクを代表する景観である。目の前には、ホーエンザルツブルク城がそびえるように見えた。
(写真左=ミラベル庭園)

 ザルツブルクは小さいながら長い歴史を感じさせる落ち着きのある町である。町の中心部を流れているザルツァッハ川がまことに雄大だった。

モーツァルトの生家を訪ねて

sw-27 ザルツァッハ川を渡ると、ゲトライデ・ガッセという旧市街の目抜き通りに出た。この目抜き通りが絵葉書になるようにとても美しい。通りの両側に、中世の面影が漂っている。
(写真右=ザルツァッハ川から望むホーエンザルツブルク城)




sw−37 古い構えのショップと、モダンなショップが同居している。ゲトライデ・ガッセに入るとすぐの所に、モーツァルトの生家がある。たくさんの人が前に出て写真を撮っている。今はモーツァルト博物館となって公開されている。
(写真左=ゲトライデ・ガッセの通り)



sw-38 入口で入場券を買い、博物館である4階へと足を進めた。そこはモーツァルト一家がかつて住んでいたかなり大きな家である。内部にはモーツァルトの手紙、初版の楽譜、モーツァルトが初めて使ったバイオリン、そしてモーツァルトの髪の毛までが展示されていた。モーツァルトはこの家に、1773年から1787年まで住んでいたとのことである。
 一人の偉大な音楽家を輩出した町ザルツブルクは、そのことで世界に名前が知れ渡っているような印象の町である。町中がモーツァルト一色なのである。加えて、ザルツブルク音楽祭もとりわけ有名である。
(写真右=モーツァルト博物館のある建物)

サンクト・ペーター教会

sw-28 町のどこからでも目につく町のシンボル的な存在であるホーエンザルツブルク城は、旧市街の南側にある城で、130メートルの高台に聳え立っている。麓からケーブルカーに乗って頂上まで行った。高台からは町が一望でき、すばらしい景観である。
(写真左=サンクト・ペーター教会)

 この城の中には教会があり、訪れた日も夜にコンサートが開かれるとの案内が掲示されていた。
 高台から下の方へ歩いて降りて来ると、ケーブルカーの駅に再び出た。ネクタイにスーツ姿の男性と、裾の長いドレスで着飾った女性とすれ違ったが、おそらくコンサートに出かけるものだろう。その駅から左手の方へ進むと、大きな教会があった。この教会の敷地へは自由に入れるらしく私も入ってみた。左手の方には岩の絶壁をくりぬいた小さな穴が無数にあった。またその下には、近代的でものすごく豪華な墓がずらりと並んでいる。後で知ったのであるが、この穴は初期のキリスト教徒のカタコンベ(墓)であるとの事だった。教会の敷地の中いっぱいに、十字架の墓だらけである。教会の壁にまで墓となっているのには驚いた。
 この教会は、モーツァルトの「ハ短調ミサ曲」が初演されたところで、そのときモーツァルト自身が指揮をして、夫人のコンスタンツェがソプラノを歌った。そのためザルツブルク音楽祭では、この教会で「ハ短調ミサ曲」の演奏プログラムが組まれている。モーツァルトをたっぷりと堪能して、次のウィーンに向かった。

音楽の都ウィーン

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 オーストリアの首都であるウィーンは、バロック建築の町並みに、二千年の歴史の重みを感じさせてくれる。人口は約186万人余り(2017年現在)と、首都としては決して大きくはないが、かつては広大なヨーロッパを支配したハプスブルク家が宮殿を構え、音楽の中心地でもあった。モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなど、数え切れないほどの音楽家たちがここを舞台に活躍し、永遠の眠りについた場所である。
(写真上=ウィーン市街)

ハイリゲンシュタットの町

sw-4 ウィーンの中心部から市電に乗って、十五分位離れた北の方にハイリゲンシュタットという小さな町がある。葡萄畑に囲まれた静かな田舎町を世界的に有名にしたのは、ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」がこの地で書かれたためである。これは、ベートーヴェンが耳の病にかかり、希望を失い死を決心して、甥のカールに書き残した手紙である。
(写真左=ベートーヴェンが歩いた散歩道)

 市電を降りて歩いてみると、木立の間から小鳥のさえずりと小川のせせらぎが聞こえてきた。曲がりくねった道を歩いて行くと、「ベートーヴェンの散歩道」の入り口の標識が立っており、この散歩道は、約210年前にベートーヴェンが歩いた時と同じ姿で残されていた。

sw-33 散歩道の両側は、木々で覆われ、日中でさえも光をさえぎり、まるで森の中を歩いているようであった。さらに奥深く行くと「ベートーヴェン・ルーエ(休憩所)」と呼ばれている小さな広場があり、1863年に建立されたベートーヴェンの胸像があった。
 この散歩道でベートーヴェンは、交響曲第6番「田園」の第2楽章「小川のほとりの情景」の曲想を得たとされている。ベートーヴェンが「田園」の中で表した音楽そのものの世界がここにはあった。

ベートーヴェンハウス

sw-23 散歩道を後にして、プファール広場にあるベートーヴェンハウスを訪れた。ここで、ベートーヴェンは1817年5月から6月末までの2か月間を過ごした。
(写真右=プファールプラッツにあるベートーヴェンハウス)

 現在は、地元で取れるワインの酒場として使われている。この酒場では、1683年以来、ここに住んでいるマイヤー家が、自分の葡萄畑で取れるワインを飲ませてくれる。この周辺は「ホイリゲ」(今年採れた新酒を飲ませるという意味)と呼ばれる酒場が多く、日中から多くの人たちが、ワインを飲みながら、話に花を咲かせてとても賑やかだった。ベートーヴェンも同じワインを飲んだであろう。私はここでビールを注文して飲んだのだが、後で考えてみれば、ベートーヴェンも飲んだであろう同じワインを飲むべきだったなあとちょっと後悔した。 
sw-24 ベートーヴェンが住んでいた奥の部屋は、既にレストランに改造されており、彼の肖像画が掲げられているだけであった。この家はプファール広場に面しており、8月のウィーン音楽週間には、オーケストラ演奏も行われる。
(写真左=ベートーヴェンハウスの内部)


sw-5 プファール広場をさらに下ると、ハイリゲンシュタット公園があり、小高い場所にベートーヴェンの散歩姿の像があった。ベートーヴェンは散歩を日課としており、この像もマントのポケットに五線紙を入れ、手を後ろに組み、楽想を練っているふうである。誰かがいたずらでもしたのか、ベートーヴェンの目が赤く染められていた。
(写真右=ハイリゲンシュタット公園の坂の途中にあるベートーヴェン記念像)

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 また近くには、「田園交響曲」を作曲した家もあり、ベートーヴェンの足跡を見ることのできる家や像などの史跡が、今もべートーヴェンを身近に感じさせてくれる。
(写真左=交響曲第六番「田園」を作曲した家グリンツィング)

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 ハイリゲンシュタットにあるプファール広場を左に曲がり、さらに小道を歩くとすぐ左側に「遺書の家」がある。べートーヴェンは、ここで遺書を書いた。
(写真右=遺書の家)





中央墓地

sw-6 ウィーンの南の郊外に縦横2キロメートルにわたる広大な墓地がある。中央墓地と呼ばれているものである。1873年に設計され、大理石で造られた中央正門は、1905年に建立されたものである。
(写真左=中央墓地の並木道)

 映画好きな方には見覚えがあるかもしれないが、「第三の男」というタイトルの映画は、ここ中央墓地がラストシーンでロケ地となった場所として有名である。
sw-15 市内から市電で20分位乗ったら終点の中央墓地に着いた。中央墓地は巨大な広さだ。東西南北は最大で1キロメートル以上もある。ようやくベートーヴェンに会える気がして、私の高揚感がいよいよ高まった。
(写真右=ウィーン中心部から中央墓地に向かう市電)

 終点の駅から墓地の門はすぐ目と鼻の先にあった。歩いて門を過ぎると、人の良さそうな門番が立っていて、門を通り過ぎる車から何やらお金を徴収している。私も墓地に入場するのにお金が必要なのかと思って近寄った所、その必要はなく、むしろ彼は私が何者で、何を目的として来たのかを承知しているが如く、「ベートーヴェン、シューベルト?」と聞いてきた。私がイエスと答えると、向こうだと手まねで教えてくれた。なぜなら、ここを訪れる外国人の多くは、楽聖たちの墓碑を見学にくるのである。
sw-16 広く長い並木道の両側は、見渡す限り墓碑が続く。そして、ここにある墓碑は一つひとつが実に個性的に造られている。
(写真右=楽聖たちの墓がある場所を示す「第32区A」の看板)

  また、墓碑の彫刻にはどういう訳か、女性像が付属している場合が多い。墓の回りは色とりどりの花が植えられてあり、よく整備されている。さながら墓地公園のような感じである。若い人の姿は少なく、老人が花をもって歩いていたり、墓の掃除をしたりしている姿が目についた。
 日本のように暗い墓地というイメージはなく、四季折々に囲まれた自然公園のような所に、いつでもピクニックという気分で故人を偲ぶ「墓参り」も楽しいのではなかろうか。

特別名誉墓地区「第32区A」
 
sw-7 あまりの広さに道を迷ってしまったが、幸い標識が掲げられており、お目当ての場所に行くことができた。ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスらが眠る場所は、特別名誉墓地区「第32区A」というところで有名な楽聖たちの墓が一同に集まっている。
(写真右=ベートーヴェンの墓)

 まず正面にはモーツァルトの記念碑があり、それを囲むように、後の左手には、ベートーヴェン、右手にはシューベルトの墓があった。ブラームスの墓碑は、ブラームスが手を頭に置き、何か困ったな(あ)というスタイルである。市内のウィーン楽友協会の前にもブラームスの像があるが、こちらはどっしりといすに座っている姿であり、ちょっと感じが違っている。
sw-8 この「第32区A」には他に、ヴォルフ、J ・シュトラウス父子、スッペ、グルックなどのよく知られた音楽家の名前を見つけることができた。また、ベートーヴェンやシューベルトは、一度は別の墓地に埋葬されたが、1888年にウィーン楽友協会やフィルハーモニー協会などによってこの墓地に移され、建立されたと記されている。そしてモーツァルトも別の墓地に埋められたが、彼が埋められた場所は永遠のなぞになっており、この中央墓地には記念碑のみが立っている。
(写真左=ブラームスの墓)

 写真を撮っているうちに、楽聖たちが語りかけてくれるような錯覚におちいり、しばらくその場で物思いふけってしまった。彼らの作品を思い出しながら、半日近くここで時間を過ごした。

ウィーン市内をぶらぶら歩く

sw-9 滞在したホテルを出てぶらぶらと歩くと、旧市街の中心にあって137メートルという高い塔を持つ聖シュテファン大聖堂があった。
(写真右=聖シュテファン大聖堂)

 外は気温が26℃という暑さであったが、教会の中に入ると、ひんやりとするくらい涼しい。そしてローソクの匂いが辺り一面にたちこめており、外界とは別世界のようである。正面の大きいステンドグラス、豪華な祭壇、細かな彫刻が施してある説教壇、そして絵画が目についた。
sw-22 天井は高く、柱は天井のところでアーチ型になっている。後方の上にあるパイプオルガンもまた大きく、歴史の重みを感じさせる。椅子に腰をかけ、パイプオルガンの音に耳を傾けると、まさにすべての芸術がこの教会に収められているような気がしてきた。
(写真左=聖シュテファン大聖堂内部)

sw-29 外に出て、この大聖堂をカメラに収めようとしたが、あまりの大きさに入り切らなかった。この聖シュテファン大聖堂から、かつてのハプスブルク皇室の宮殿であるホーフブルク宮殿までの500メートルをグラーベン通りと呼び、歩行者天国となっていた。この通りは高級ショッピング街となっており、平日でも観光客でいっぱいであった。
(写真右=グラーベン通りの奥にあるホーフブルク宮殿)

音楽家の知られざる足跡

sw-30 グラーベン通りに沿って歩きながら、ピアノの詩人ショパン(1810〜1849)が、1830年11月から9ヶ月滞在したとされる家を探した。
 その家の跡は、正面の入り口に白い石の碑板が掲げられていた。その碑板がビルの壁の色と同じような色であったため、分かりにくかったが、よく見るとショパンの顔入りの石の碑板であった。この家は1900年に取り壊されて、同じ場所には今日では別の建物が建っており、高級品を扱うショップとなっていた。
sw-31 またそこから50メートル程離れた所には、かつてのハイドンの住居もあった。ハイドンが住んでいた所には、外の壁に50センチくらいの銘版がついていた。多くの観光客は、これらの史跡には気がつかないのか、まじまじと眺めている私のそばを通り過ぎて行った。
(写真右=ハイドンがかつて住んでいたことを示す銘板)

ウィーン少年合唱団

sw-32 豪華な門にしては、小さな入り口のホーフブルク宮殿に入ると、モーツァルトの映画「アマデウス」の中に出てくるような服装をした女性が、観光客を案内している。そこを左手に曲がると、中にブルク礼拝堂があった。
(写真右=ホーフブルク宮殿)

 ここの礼拝堂では、毎週日曜日に朝のミサで、ウィーン少年合唱団の歌声を聞くことができるという。ホテルのカウンターには、300オーストリア・シリング(当時のレートで約3000円)で、このウィーン少年合唱団のツアーの案内があるのだが、(立ち見席の場合は無料)、宗教的儀式であるミサをツアーで訪れるのもおかしい気がして止めることにした。
 チケットは、前々日の金曜日に、この入り口で発売されるとのことである。ふとその時に、20年前に日本で聞いたウィーン少年合唱団の美しいハーモニーを思い出しながら宮殿を後にした。

心休まるウィーンの街

sw-20 ウィーンを訪れる前に、ドイツやスイスに立ち寄ったが、正直言ってそれらの町の景観に少々疲れてしまった。町自体はとても綺麗であるが、日本の木造建築とは違って、どこへ行っても石やコンクリートの建物と石畳が延々と続くのである。日本が木の文化であるとするならば、ヨーロッパはまさに石の文化である。木造建築の持つ暖かみが無く、私が疲れた原因はこの辺にあると思う。
(写真右上=モーツァルトが歌劇「フィガロの結婚」を作曲した家フィガロ・ハウス、聖シュテファン大聖堂の裏手)

 さてウィーンも他のヨーロッパの町と基本的には変わりはないが、町が森の中に囲まれているといっても良いほど緑が多く、疲れた旅人を暖く包んでくれる。そして何かしら華やかさが感じられ、訪れた人は誰でもが魅了される町と言っても過言ではない。神聖ローマ帝国を治めたハプスブルク家の本拠地としての伝統を感じさせるものである。

市立公園(シュタットパーク)
 
sw-13 ウィーンの市立公園は町のまん中にあり、百年以前に作られた。広さは0.6平方キロメートルと言う公園である。ここには、シューベルト、ブルックナー、ヨハン・シュトラウスの像が立っている。とりわけ目立つのがヨハン・シュトラウスで全身が金色に輝き、ドナウ河を象徴している白い彫刻のアーチを背にして、バイオリンを弾く姿は音楽の都ウィーンを象徴するようだ。(写真右上=ヨハン・シュトラウス像)

sw-19 ガイドブックにあると書かれていたシューベルトとヨハン・シュトラウスの像は簡単に見つかったが、ブルックナーはガイドブックが間違っているのか、それとも像が移されたのか、なかなか見つからず、公園を一周してようやくカメラに収める事ができた。
(写真左=シューベルト像)

 緑豊かな公園の中は、子ども達が遊ぶ砂場や遊具場などもあり、市民の憩いの場所となっている。またビールを飲みながら、ワルツなどが聴ける屋外ステージもあり、ウィーン市民にとっては音楽が特別なものではなく、本当に生活の一部として受け入れられているように思えた。

ベートーヴェン記念像での立ち話

sw-17 音楽の町だけあって、町の至るところに楽聖たちの像がある。市立公園の南側から歩いて100メートル位のところに、ベートーヴェン広場があり、ベートーヴェン記念像がある。ここのベートーヴェン記念像は、1880年に完成したということであるが、ハイリゲンシュタットにある像に比べても極めて豪華にできている。そして力強いまなざしで見下ろしている。
(写真右=ようやく探し求めた市立公園の中のブルックナー銅像)

 ここで記念像の写真を撮っていたら、べンチに座っていた年配の男性が私にドイツ語で話しかけて来た。私は大学でドイツ語を1年間ほど勉強したことはあるが、全く使い物にならない。だから英語で話しかけてみたのだが、今度は相手に通じないようである。
sw-18 私はドイツ語で唯一覚えていた「私はドイツ語を話せません」という文章を何度も言ったのだが、そんなことはおかまいなしに、その人は身振り手振りを交えて猛烈に話しだした。
(写真右=ベートーヴェン記念像)

  その言葉の中にハイフェッツ、メニュインと言った名バイオリニストの名前が出てきたり、コンツェルトハウスの建物をさかんに指さしているところを見ると、どうやらそこでの演奏の様子を話しているらしい。きっとそこで彼らの演奏を聴いたことを話したかったのだろう。ごつい彼の手の指にもかかわらず、バイオリンを弾く手振りといい、細い指の動きはあたかも彼がバイオリンを弾いているかのようである。ドイツ語にちんぷんかんぷんな私をよそに、彼はとうとうと話し続け、およそ30分もの間、私たち家族はその男性の音楽談義を聞くはめになった。その話はとても終わりそうにないので、「ありがとう」と言ってその場を離れたが、どこにでも熱烈なクラシック音楽ファンがいることは確かで、もしかすると彼はオーケストラでバイオリンを弾いていたのかもしれないなどと思った。

デモ隊を見る

sw-11 ウィーン滞在2日目、ホーフブルク宮殿を見物した後に、メインストリートへ出た。道路の真ん中を大人から子どもまで、赤のプラカードを持って行進している。一瞬何かと思ったが、その日は5月1日のメーデーだったのだ。珍しさもあってデモの様子を道路の側でしばらく見ていた。レーニンの写真がデモのプラカードに混じっていたのが日本と少し違うが、デモそのものは日本もここウィーンもたいして違いはない。しかし、その後に違ったのは、デモ隊のすぐ後を数台の清掃車がついていて、道路に捨てられたゴミをすぐに掃除をしている。これには驚いた。
sw-26 メインストリート(ブルクリンク)は、旧市街を囲んでいた城壁を撤去した後、作られたとのことであるが、道幅が50〜60メートル位あり、渡るのが辛いほど幅がとても広い。このブルクリンク沿いにあるのが、ブルク公園である。
 公園に入るとすぐの所に、モーツァルトの大きな像があった。モーツァルトが指揮台の前に立つこの像は、とても豪華に作られていて、1896年にできたということであるが、そのような古さを少しも感じさせない。
 像の下部は、ピアノの鍵盤になっていて天使がその回りを戯れている。モーツァルトの音楽が今でもポピュラー音楽にアレンジされているが、この像を見ていると、モーツァルトがいかに庶民に愛され、慕われているかをうかがい知ることができる。

ウィーン楽友協会

sw-39 ブルク公園よりさほど遠くない所に、赤くくすんだ色の外壁を持つ、それほど大きくはない建物が目に入った。
(写真右=ウィーン楽友協会ホール)

 ここが楽友協会ホールで、1869年の建設である。このホールはウィーン・フィルの本拠地でもあり、1月1日の「ニューイヤーコンサート」が開かれるので有名である。日本でも同時衛星放送がなされるのが通例であるからご承知の方もきっと多いだろう。

sw-40 ウィーン滞在最後の夜、折角の機会だから私一人で演奏会に行こうと思い、建物1階にあるチケット売り場へ行った。子供がまだ小さかったからコンサートに一緒に行くことは無理だったからである。
(写真左=ウィーン楽友協会ホールでのコンサート案内板)

 当日夜のプログラムは、楽友協会のオーケストラによるブルックナーのシンフォニーと、現代曲のピアノコンサートの二つがあった。残念ながらシンフォニーの方は、予約がいっぱいで取れなかったが、ピアノコンサートの券は入手できた。この売り場では、チケットは電車の指定券同様にパソコンで発券していて、当時としてはちょっと進んでいるなと驚いた記憶がある。
 午後6時頃にホールに入ってみると、ピアノのコンサートは小ホールで行われるようになっていた。

 そこにはブラームスの像が窓側に置いてあり、この部屋はブラームス・ザールと呼ばれる小ホールであった。壁、天井は金色で眩しいくらいであったが、傷ついたステージは歴史の年輪を感じさせるに十分であった。
sw−41 コンサートまで少し時間があったので、大ホールを見学に行こうと思った。大ホールには自由に行けて、開演前だったのでステージや客席にはまだ誰もいなかった。後方の扉を開けてみると、思っていたものよりもかなり小さいというのが私の印象である。しかし、天井は高く壁は小ホール同様に金色に輝いていて、大ホール自体が最高の芸術品という感じである。まさにテレビで見るあの場面の風景そのものである。
(写真右=ウィーン楽友協会ホール近くのレッセル公園に建立されてあるブラームスの銅像)

 ピアノのコンサートは、演奏者が誰でプログラムが何だったか、演奏の内容などはさっぱり覚えていないが、憧れの楽友協会ホールでとにかく生の演奏を聞いたというのは私の一生の思い出であり、また音楽の都ウィーン訪問は私の人生の中で最高の至福の時間だった。
 今はインターネットのグーグルストリートビューを操作すれば、世界中、どこにでも行った気分になれる。当時のウィーンの写真を眺めて、今はどんな風に変わったのか見てみたいと思っている。

※令和2年(2020)1月1日、米沢日報紙に掲載のものに加筆

(2020年5月30日13:45配信、2022年9月5日9:40最新版)